近づけばおぼろげに揺れる

君と見たいスペクタクル

「君」がいない、はじめての夏が来るーー嵐「夏の名前」はなぜこんなにも胸を締め付けるのか

以下の文章は、2021年5月14日付で音楽文 (https://ongakubun.com/) に寄稿したものです。当サイトのサービス終了に伴い、こちらに転記します。

 

夏が来ると、聞きたくなる曲がある。
嵐「夏の名前」は私にとって、そのひとつだ。

楽曲は、タイムカプセルに似ている。曲を再生する度に、カプセルに閉じ込められた思い出がふっと香って、頬をかすめる。
この曲を聞いてきっと、とある人は在りし日の横浜アリーナを、とある人は在りし日の国立競技場を、とある人は在りし日のハワイを思い出すのだろう。
彼らとの思い出は四季とりどりあるけれど、それでもやっぱり、夏の思い出は格別だ。

夏は明るくて眩しくて、だけどなんだか切ない。冬の恋よりも夏の恋のほうがずっと、泡沫のような儚さと脆さを感じてしまうのは四季がある国に生まれた人間の性なのだろうか。瞬きをしている間に、サイダーは気が抜けてしまうし、花火は散って空に溶けてしまうし、砂浜に書いた文字は消えてしまう。その煌めきとそこに隣り合わせる非永遠性から、人生の中でのいわゆる「青春」の期間を「夏」という表現を使って歌詞に表されることも多い。アイドルにとっての「夏」は、アイドルであった期間、いつも隣にいた仲間だったり支えるスタッフであったり応援するファンであったりする「君」といた時間なのだと私は思っている。というより、そうであってほしいと思っている。これは私のエゴだ。
そう考えた場合、「夏」のまんなかにいるとき、人は、この夏がいつ終わるかなんて考えていない。考えてみても、わからないからだ。夏が永遠に続かないことはわかっていても、いつ何がきっかけで季節が変わってしまうかなんて、誰も知る由もない。気付いたときにはもう、夏は知らず知らずのうちに終わっているのかもしれない。
だから夏はいつだって、「あのとき」なのだ。終わってはじめて、季節が変わってはじめて、「あれが夏だった」と気付く。
季節が変わっても、当然、日常ががらりと変わるわけではない。春も、夏も、秋も、冬も、いつも通りの暮らしが続く。心に穴が開いたような気持ちだろうと、無情にも変わらぬ日々に忙殺されているうちに、人はその穴を表層では忘れてしまう。
でも、ほんのふとした瞬間に―――たとえば、《あの時と同じような 風が吹いた》とき、なんかに―――鍵をかけた宝箱を耐えきれずに開いてしまったかのように、筆舌に尽くしがたい感情が湧き出て心が掻き乱されてしまうことがある。ああ、「君」はもういないんだな、と実感してしまうことがある。「夏の名前」の「君」も、私がはじめて恋い焦がれたアイドルである「君」も、この世から去ったわけでもなければ後者に関しては今もその元気な姿を見る機会に恵まれている。でもそれは、私にとっては「君」じゃない。あの「夏」の「君」には、どんなに願ってももう会えない。いつか会えても、それは「夏」とは別物だと私は思っている。《君の名前さけんだ 胸の奥が音をたてた》数え切れないほどの観客が、「君」の名前を叫んだときの「君」の表情が好きだった。「君」が観客の名前(のようなもの)を叫んでくれる空間が好きだった。「君」が、愛してやまないグループの名前を観客に問うあの瞬間の、「君」の幸せを噛みしめるような姿が好きだった。私が愛してやまなかった、今でも思い出してはチクリと胸が痛む、私にとっての「夏」の「名前」。それはきっと、「夏の名前」というタイムカプセルを開く度にこれからも過ぎってしまう、淡くて儚いこんな思い出。
どんなに今、叫んでも。バスの窓から君の名前を叫んでも君に届くことはなかった「夏の名前」の主人公のように、あの「君」には、「夏」の「君」には、もう届かない。届けられない。だって「夏」は終わってしまったのだから。

5月。まだ本番はこれからというのに、容赦なく照りつける太陽とアスファルトが焦げる匂い、雲一つない青空。夏のはじまりを感じる。
夏が来る。「夏」が終わってからはじめての、夏が来る。「君」がいない夏に、私は何を思うのだろう。

《君と出会ったこと 離れても忘れない いくつか過ぎてた 夏の名前 忘れないだろう》


《》内は嵐「夏の名前」より引用。