近づけばおぼろげに揺れる

君と見たいスペクタクル

「あの日」の嵐に会いに行こう ARASHI Anniversary Tour 5×20 FILM “Record of Memories”

遡ること11月8日。私は「あの日」の嵐に会いに行った。菊池風磨さんも言っていた通り、このジャニーズ初のライブドキュメンタリー映画を一言で言うならばまさに「再会」。これは、そんな再会を通して私が見たもの感じたものの記録である。

 

本編開始1秒。

5×20のOPに使われていた曲が流れる。でもコンサートDVDとは違って、会場内の様子やOP映像は流れない。この映画が収録された公演(シューティング)がはじまる日本時間18時直前、その瞬間の東京ドーム周辺の空撮から、同時刻の世界各都市の様子が変わるがわる映し出される。いつコンサートがはじまるのか、本当の開演前のように息を詰めて画面を見つめる。その後再びカメラは東京ドーム周辺を映し出す。

私は5×20の公演が始まった当時、高3だった。受験を間近に控えて、後楽園駅から東京ドームをまるごと通り抜けて水道橋駅近くにある予備校に毎日通っていた。

空気感まで「見える」みたいな、非常に劇画的なカメラワークに、あの冬の冷たい空気が、これから「幸せ」が具現化された空間に足を踏み入れるひとびとの高揚と熱気が漂う会場周辺が、そんな中で予備校に向かわなければならないという陰鬱とした気持ちが、でも最後にまたドームの方を振り返って見上げて「今日も嵐はここで頑張ってるから頑張ろう」ともらった勇気が、体感として蘇る。これから私は、「あの日」の私で、「あの日」の嵐に、会いに行くんだ。身体が震える。あと数分か、数秒か、

バンッ。

暗転。OP曲がクライマックスに向かっているのがわかる。どうしよう、もうすぐ、もうすぐ、

「5×20」

表示されるロゴ。そして暗転。そして一瞬の静寂ののちに。

 

キャーーーーーーーーーーーー!!!!!

真っ暗なスクリーンにただ歓声の音声だけが響いた瞬間、その渦が耳を包んだと同時にオートみたいに一筋の涙が溢れた。その次の瞬間、私が大好きだった5人のアイドルが姿を現す。そこからはもう堰を切ったように涙が止まらなくなって、ずっと、ずっと、静かに嗚咽して泣いてしまった。ここが泣けた、とかじゃなくて最初のブロックはもうひたすら泣いていた。泣きすぎて、開演ギリギリに口に放り込んだのど飴を誤嚥した。(危険なのでこの映画を鑑賞する際ののど飴は非推奨です)

大好きだった空間。

大好きだった時間。

大好きだった、アイドル。

アイドルと私たちがずっと愛してきた空間。そして今、ずっと待ち望んでいる空間。

大好きだった東京ドームで、5万5000人*1がぎゅうぎゅうに、満員で、マスクもせずに、全力で声を出して叫ぶ。

こんな空間は、時間は、いつになったら戻ってくるのだろう、と。

そして、大好きだった空間で、大好きだった彼らの生き様を、このときと同じように浴びることは永遠に不可能*2なのだ、と。

ふたつの意味を持つ「今なくなってしまっていて、いつ戻ってくるか、そして果たして戻ってくるのかもわからない光景」が襲いかかる。

コロナ禍以前、アイドルの現場に行く度に、本当に存在するんだ…と感じると同時に遠い存在であることを再認識していた。テレビなどの媒体を介して見るよりもずっと近いのに、媒体を介して見る彼らよりも生身の彼らのほうがずっと遠く感じる。一見矛盾している不思議な感覚だけれど、共感していただける方も多いと思う。

これに似た現象が、今回の映画を見ていても起こった。それは、

大好きだった嵐、2020年12月31日から見られていなかった本当の意味での「嵐」がいま、目の前にいるという実感。存在している。歌っている。踊っている。

一方でそれを感じれば感じるほど、そこにいる「嵐」が美しくあればあるほど、私が好きだった「嵐」であればあるほど、

もう「嵐」はいないんだ、帰ってくるかもわからないんだ、という実感が強く強く湧いてくる。

「嵐がいた時代」の記録であり、記憶を閉じ込めたカプセルを開いてその当時にタイムスリップしたかのように入り込むことができるこの映画のほうが12月31日の配信よりもずっと残酷だった。そして美しかった。なぜか。12月31日はまだ「今」の姿だったけれど、この映画は完全なる「過去」だからだ。映画を見る前の世界は、当然ながらもう嵐がいない世界線だ。私たち嵐を愛していたすべての人は、前世で何の徳を積んだのか、この映画によって「あの日」──活動休止は発表されていたものの、メンバーもファンも誰ひとりこんな世界になるなんて思っていない頃、メンバーは北京も国立もロスも五輪も最後の5大ドームツアーもできるだろうと思っていた頃──にタイムスリップすることを許されたのだ。四方を高音質のスピーカーで囲われ、前方からは彼らの声が、他の三方からは観客の歓声が身体を包んで、まるでこれまでの現場で入ってきたようなさまざまな席の視点からのカメラワーク、生で見ているかのような画質の良さをすべて最高水準で兼ね備えたドルビーシネマは、巨大なタイムマシンでしかなかった。

でもどんなに望んでも私たちは「あの日」に居続けることはできなくて、映画を見たあとに引き戻される現実世界もまた、もう嵐がいない世界線なのだ。まさに、「この時だけは君と共に」。「僕ら交わした声消えない」も胸を締め付ける。5×20のセトリはどれも歌詞で選ばれているからどの曲を聴いてもグッとくるのだけれど、とりわけ最初のブロックの曲たちと後述の5×20の歌詞は、時を経て「あの日」にタイムスリップする私たちのために選ばれたかのようだった。

この映画を私は、あと何度かは見に行くだろう。そしてその度に「あの日」の夢をもう一度追体験するのだろう。前世の私が積んだ徳に感謝したいと思うと同時に、その残酷さも胸を刺してくる。「夏」は、永遠じゃない。けれども、永遠ではない「夏」を彼らはフィルムに収めることで永遠にしてしまったのだ。なんという救いだろうか。そして、なんという呪いだろうか。

「夏」の定義に関してはこちらをご参照ください↓

spectacle-nina.hatenablog.com

 

大好きだった。5人の個々のパフォーマンスが、5人がひとつになって提供してくれるステージングが、大好きだった。大好きだったエンターテイメントが、いま目の前にある。ああやっぱり大好きだ。私の原点にして頂点だ。と思うのと表裏一体で脳裏をよぎる、このエンターテイメントは、この人たち(各メンバー)のパフォーマンスはもう見られないということ。そして、それを奪ってしまったきっかけは、ファンだということ。私は決して忘れることのないであろうその十字架を抱えながら、あの日、「たしかにそこにいた」生身の彼らを必死に目に焼き付ける。

天井席、正面スタンド、(やや埋もれ)アリーナ…などさまざまな視点からのカメラワークで、私はこれまでのオタク人生の中で入ったことのない「ドームのアリーナ席」を疑似体験することができた。嵐担に限らず、Twitterに上がるオタクのレポの中には「なんでこんなに細かいところまで見えるの?」と疑問に思うものも多々あったけれど、なるほどたしかにこれはよく見える。彼らの表情の微々細々、彼らが指先まで意識を張り巡らせることがわかるパフォーマンスまではっきりと見える。ライブDVDとは比較にならないスクリーンの規模と画質で、舐めるようなカメラワークでこの目線から見ることで、私はあることに気付く。

ジャニーズの、そしてドーム規模のアイドルとなると、どうしても現場で「距離」ができてしまう。私はその距離間を心底愛しているからこそ東京ドームという会場が好きなわけだけれど、この「距離」によって見えていなかったものがあまりにも多かったということだ。

それは、私が思っていた以上に彼らのパフォーマンスは、その指先から髪まで神経を張り巡らされて、あまりに多くのことに注意を払って計算尽くされ、自在に操って自らの解釈した表現を魅せているということ。

何を今更、と思われるかもしれない。

けれど、これまで足を運んだどの現場よりも、これまで見てきたどの円盤よりも、その肌感(もちろん布を隔ててはいるのだけれど)、筋肉の動き、張り巡らされた緊張感、鼓動を大迫力なんて言葉では言い表せられないほど感じることで「彼らがあまりにも自然にこなすから気付いていなかった彼らの努力」を身に染みて知ったのである。今や後輩に「尊敬する先輩(通称「尊先」)」としてその名を挙げられることの多い彼らにもそれぞれ「尊先」がいた。尊先やそのほか偉大な先輩の映像を繰り返し見ながら、どれほどの研究を重ねてきたのだろう。「普通の男の子」がこのレベルをさらっとやり遂げてしまうまでにどれほど血の滲むような努力をしてきたのだろう。

私が他に足を運んだことのある地下アイドル規模の女子ドル現場だと、そういった研究や努力の痕跡は見えやすい。短い自分の見せ場でいかに自分をよく魅せるか、いつカメコに撮られても気が抜けていると思われないように意識を常に張り巡らすさま。

女子アイドルのほうがそのスキルは高いとジャニオタが褒めているのを見たことがある。そのときはそうかもしれない、と思っていた。でも今となってはとんでもない。普段ここまでカメラや客の視点が彼らに近付くことがないから気が付いていないだけで、そして、彼らの真のすごさはその研究や努力の泥臭さを一切感じさせないことだ。これこそが真の「完成」なのだと、気付かされた。

夏疾風で、「限りある時の中 輝け命」と歌い舞う彼らを見ていると、「客席にいるとその人の命が削れてキラキラしたものが見える。自分自身を全部かけて、命が削れていって、その破片がキラキラ飛んでいくから」というバレエダンサーさんの言葉を思い出した。目の前の彼らがあまりに命を削るように踊るから、行かないで、ここにいて、と縋りたいような気持ちになってしまう。

長く嵐担をしている母がよく「嵐はパフォーマンス中に苦しそうな表情をしないからすごい」と言っていた。一緒に映画を見たあと、母はこう言った。「あの嵐にもしんどそうな瞬間があって、それに一番びっくりした」息遣いまで感じ取れるこの映画でなければきっと、ずっと気付かなかっただろう。

私が印象的だったのは、度々映し出される彼らの背中のカットだった。「アイドルの背中」ってあるなと私はこの映画を通して感じて、彼ら自身が以前語っていた数百人のスタッフを抱えた「嵐」というひとつのビッグプロジェクトのフロントマンとして、そして名実ともに日本の、世界のトップアイドルとして、抱えるもの、背負うもの、歩いてきた道がその背中から痛いほどに伝わってきた。社会人としてのかっこいい背中。それでいて、どこか現人神のような、非現実感。「背中の羽を隠す仕草」をしているのはあなたたちのほうでは、と言いたくなる*3。その背中の奥には、ペンライトが揺れる客席が見える。客席にもカメラは迫る。世界中の幸せを集めたような顔で彼らを見つめる人、涙ながらに彼らを胸の内のファインダーに収めようとする人、万感の想いを噛みしめるように凛と彼らを見上げながら胸を抑える人。きっとひとりひとりに「あの日」あの場所に来るまでの物語が、彼らと歩んだ人生があるのだろう。私の人生の隣にはいつでも嵐がいたように。

 

今回全編通して目を見張るものがあったのは二宮くんのパフォーマンス。私はもとより二宮くんのアイドルになるために生まれてきたかのようなステージングを心から敬愛していて、彼のパフォーマンスは緻密な計算と努力によって形成されているのだけれどそのすべてが計算だとしたらあまりにおそろしいから、その畏怖から私は彼のことを「天才」という言葉を使って表現してしまうのだけれど彼はどう見ても努力の天才だ。私は彼のアイドルとしてのパフォーマンスに全幅の信頼を置いている。アイドルとしての彼のすごさはあまりに過小評価されすぎていると私は思っているから、「二宮和也」というアイドルがいかにとんでもないパフォーマーなのか、その一端をぜひ嵐を履修したことがない方にこそ体感していただきたい。数多のアイドルが彼のパフォーマンスに影響を受けているはずだ。彼のパフォーマンスを語るのに、これ以上の言葉はきっともう必要ないだろう。

潤くんは衣装の扱い方がピカイチ。彼も魅せることに長けていて、二宮くんのすごさとはまた違った方向性で神経が張り巡らされたパフォーマンスは圧巻。二宮くんのパフォーマンスは広義での「演じる」の一種だとすれば、潤くんのパフォーマンスは彼が今まで貪欲に吸収してきたエンターテインメントを自分のものとして体得している、といったニュアンスが近いか。多くを学んできた人の言葉にはその人が涵養してきた教養の深さが見えるように、潤くんのパフォーマンスには「エンターテインメント教養」の深さが見える。そして彼のオーケストラ指揮パートでは、彼の代表作といえるドラマの主題歌メドレーが。潤くんとドラマの関係性は、個人的にアイドルとドラマの理想的な掛け算だと思っている。潤くんが役に命を吹き込み、「松本潤」としてではなく役名で認識され親しまれるキャラクターに作り上げてきただけではなく、役が「アイドル松本潤」のパブリックイメージ(そして時には本人の内面も)を変えてきたことに、「俳優」ではなくて「俳優であり、アイドル」という肩書きだからこそ生まれる相互作用によってそのアイドル像に常に変化をもたらしてきた唯一無二のアイドルだと思うからだ。そんな潤くんと俳優業との関係性と彼のアイドル像の変遷を振り返って見ていた。私は彼のアイドルとしての在り方に全幅の信頼を置いている。

末ズだけこんなボリュームで語ってしまったが私は(元)櫻井担である。

一生語ってしまうからさくさく行きましょう。翔くんのピアノに関しては音楽文のほうに寄稿したものがあるので。

spectacle-nina.hatenablog.com

 

大野智は「天才」である。無論、彼が見えないところ(誰もいないリハ室など)で努力しているのは知っている。けれど、彼はその努力を本当に見せないし、努力を努力とも思ってもいないのかもしれない。それは誇るべきことなのに。自身の才能についてもそうだ。「自信がない」の一言で済ませてしまうのも違うような、なんというか、執着がない。自分のすごさに気付いていない。気付いてくれ、あなたはすごいんだよ...!この映画のパンフでも「自分がこんなに応援してもらえるなんて。ありがたいけど、本当に不思議。」「スクリーンに俺が映ると、ファンのみんながすごく盛り上げてくれて。とてもうれしいんだけど、なんだか気を遣わせてしまっているようで申し訳なかったな」と言っているけど、ほんと、自分のすごさを自覚してくれ...!(2回目)でもその謙虚さが嵐随一のファンサービスの手厚さとかにも表れてるんだろうなと思う。いやしかし、現在このダンススキルと歌声が眠っていると思うとなんという国家的損失...とはいえ、私がこれからの彼に望むことは、おだやかに、しあわせに、生きていてくれたら。ただそれだけです。思う存分ゆっくりしていてほしいな。

相葉くんのアイドルとしての生きざまは本当にかっこいい。「楽しいから笑うんじゃなくて、笑ってればいいことあるかなって」と言っていた20代から、今回のパンフでの「人生の荒波を笑顔一本で乗り切るのはさすがに無理だと思い知らされました(笑)」への変化は、彼が重ねてきた歳月を感じた。「毎日笑顔でいてくれる。それって当たり前に思えて、当たり前のことじゃないからね」と伊野尾慧さんが有岡大貴さんのことを言っていたけど、本当に、誰にでもできることではないしその裏にどれだけの想いを隠して、グループが円滑に進むように支えていてくれていたのか。それがメンバーだけじゃなくて、どれだけの人の心の支えになっていてくれていたのか。彼の笑顔を見ているとなぜか泣けてきてしまうのは、そのほんの僅かな隙間から彼の繊細さがちらちらと光が洩れるように垣間見えるからだと思う。

これだけ全員のことが好きでもやっぱり櫻井翔さんを目で追ってしまうのは、私が彼の「マイクとペン」に心底惚れているからだと思う。私は彼の言葉に、生き方に、全幅の信頼を置いているのだけれそ、MCもメイキングもない今回の映画でもなおやっぱり彼が私の「担当」だと思うのは、彼が紡ぐリリックが、そして彼が歌うことで色を変えるリリックが、彼が見せたい景色が大好きだからだ。きっと。...いや、それはもはや後付けなのかもしれない。コンサート以外の部分で彼を好きになってしまった以上、「そのとき」を生きる彼の姿をひとつでも多く目に焼き付けようとするものなのかも。

たぶん、「好き」ってそういうことでしょ?

 

そして本編最後の曲、来てしまった。

「またここで君と逢えた」

スクリーンに映し出される文字。これは、コンサートDVDには映っていなかったカット。

まるでこの映画のためみたいじゃないか。現場で見ていたときとはまったく異なった意味を持って、私の心を震わせる。そうだね、また逢えた。嵐が止んだあと、ここまで「あの日」をリアルに追体験できる未来があるなんて、あの頃は思ってもみなかった。

「5 is my treasure number」

お気付きだろうか。この歌詞のとき、4人は「5」と手のひらを掲げるようにして見せてくれる。私は現場と円盤だけでは、このことにしか気付いていなかった。この映画でのカメラワークのおかげではじめて気付いたのだ。二宮くんだけが、いつも誰よりも歌詞を身振り手振りで表現する二宮くんただひとりが、腕を後ろに回して、その背中に手のひらを、「5」を隠していた。

そのことに気付いた瞬間、私は震えた。

「本当に大事なものは誰にも見せたくない」「隠しておきたい」二宮くんだ、と。*4

愛すべき(自他ともに認める)天邪鬼である彼が、背中に隠した大切なもの。とっておきの秘密。本当に二宮くんは、いや二宮くんだけじゃなくて嵐はみんな、本当に嵐のことが大好きだね。とまた泣きそうになったけれど前半で泣きすぎてもう涙は枯渇してしまったみたいだった。

「大丈夫 ここにいる」

この映画を見る度に、「あの日」に戻れる。「あの日」の嵐に会いに行ける。この映画には、嵐がいる。当時「なにが大丈夫なんじゃ泣泣」と思っていてごめん。こんな未来が待っているなんてね。(2回目)

ここで本編終了。アンコールも来るのかな、と思っていたら。

驚愕の演出だった。やられた。

漆黒の画面に、流れるエンドロール。そしてその背景に流れるのは、Love so sweet。そしてHappiness。

いや撮ってるなら映像も流してくれよ!!と突っ込みたくなった方も多いと思うけれど、そうじゃない。

嵐のコンサートに一度でも行ったことのある人で、Love so sweetとHappinessを生で見たことのない人はいない。つまり、映像がなく彼らの歌声と歓声だけが流れるからこそ、目を閉じると(閉じなくとも)「私が行ったあの日の現場」、見る人それぞれの思い出の現場が鮮烈に蘇ってきて、束の間そこにタイムスリップして浸ることができるのだ。なんてことをするんだ。こちとらもう出せる涙はないというのに。

本編終了をもって映画の本編は終わり、実質アンコールは使われていない。

この演出を見て、私はこう感じたのである。

ああ、活動休止は「本編終了」なのだと。

嵐の「本編」は、2020年12月31日をもって幕を下ろした。「いつか」があるとしたら、それは「アンコール」なのだと。

私はこれまで「活動休止」は「アイドルの終わり」のやさしい言い方だと思っていた。でも少し違っていた。「本編終了」。これ以上納得のいく、ぴったり合う表現は他にないと思った。

コンサートは、ジャニーズでは特にアンコールがあるのが前提だと思われがちだ。でも、本来は本編の終了が真の終了であり、「アンコールがあるのが当たり前と思われるのは嫌」という理由やそのほかの理由でアンコールがないコンサートもこの世の中には少なくない。本編が終わったらもう終わりだ、と思って帰る人もいる。

アンコールがあったとしても、すぐ来るときもあればこちらも待ちくたびれたあたりに来るときもある。アンコールをしようとしていたとしても、それを望む声が少なければなくなってしまうこともある。その逆に、アンコールを待つ声が大きかったとしても来ない場合もある。本編が終わって間もないうちはみんな大きく声を上げてアンコールを呼んでいても、規制退場のアナウンス(現実を告げる声)が響くと諦めて帰ってしまう人が出てくる。それでも粘って声を張る人がいる。でも、時間が経てば経つほど、「もうないんじゃない...?」といった声がざわざわと周囲から聞こえてきて、また人が去っていく。それでも、それでも、ずっと待っている人の声は止まない。

アンコールを待つ観客の声と、規制退場のアナウンス、それでもなお待つひとびとの声が映画館に響く。その歓声を聞く5人が、映る。5人は何も語らない。あるメンバーは微笑み、あるメンバーは挑発的に腕を組み、あるメンバーは涙を堪える。

「あーらーしー」

「あーらーしー」

「あーらーしー」

そして一瞬の間の後、

キャーーーーーーーーーーーー!!!

歓声で始まった映画は、この歓声で終わる。

アンコールの幕は上がるのか、はたまた。

 

これは私の勝手な想像だけれど、この演出は、ラストライブの最後の曲に「信じることがすべて」「明けない夜はないよ」という歌詞を選んだ彼、松本潤が託した一縷の希望なのではないか。

アンコールの幕は上がるのか、未来のことは誰も知りようがない。

ただ、この映画が終わる最後の最後まで、アンコールを待つ人の声は止まない。

諦める人がいても、離れる人がいても、現実を告げる声が止まずとも、どれだけ長く待とうとも、「その日」が来ることはなかったとしても、

ペンライトは揺れている。待つ人たちはずっといる。

彼女たち*5は、再び幕が上がるその日を、アンコールを、ずっとずっと待っている。

*1:この映画では大規模カメラ設置のためにそれより入り数は少なかったみたいだけど

*2:復帰の可能性を考えていないとかではなく…ここについては後述します

*3:EYES WITH DELIGHT

*4:彼が作詞した「虹」の一節にもある

*5:性別関係なくtheyと言いたい...