近づけばおぼろげに揺れる

君と見たいスペクタクル

「戻れない時間の儚さに 光をまた見つけた」とか言いたいけど現実ただ泣くことしかできないオタクの走り書き

 

嵐が一旦その幕を下ろしてから1週間が経った。

 

年越しを区切りとして、じゃあね、バイバイと切り替えるには私の人生の大部分を嵐が占めすぎていた。私は今はHey!Say!JUMPを中心に応援していて自分のオタ活の中で嵐が占める割合は低くなっていたはずなのに、私のオタ活のすべての根幹は嵐で、嵐ありきでHey!Say!JUMPのオタクをしていたということに嵐を失って(あえてこの表現をする)はじめて気付いてしまった。だから今は正直、Hey!Say!JUMPのコンテンツを見ていてもどう受け止めていいのかわからない葛藤もある。

嵐は最後の最後まで、あまりにも優しかった。心の準備をする期間を長すぎるほどくれたことも、その一方でギリギリまでは見ている方に終わりを意識させないパフォーマンスや攻めの方向性の新曲をリリースし続けていたことも。オタクの求めるものというのはほんと人それぞれだからすべての人に優しくあることは不可能だったかもしれないけど、最大公約数に対してあまりにも優しくあろうとしてくれた。でもそれが同時に別れを未だに受け入れられない理由にもなるのが苦しい。なんで。どうして。今日も明日も普通にテレビの中で5人で笑っていそうだし今度の夏も冬も歌番組に普通に出ていそうなのに、年が切り替わっても個人仕事で他メンの名前がバンバン出され続けているのに、それでも確かに「嵐」はもういないということを私はまだ到底受け止めきれていない。人気が衰えて需要がだんだんなくなってしまったわけでもなく、メンバーの方向性の不一致や不和が生じたわけでもなく、最後の最後まで名残り惜しそうに、でも大切な宝物を守り切るようにゴールテープを切ったその画は美しすぎて、美しすぎて、美しすぎて、

悲しくて虚しくて涙が止まらないのに実感が沸かない。

こうは言ってもどこかで理解(わか)ってしまっている自分もいるんだと思う。カウコンに嵐がいなかったこと、エナジーソングで「また明日」とは言ってくれなかったこと。年が明けたら5人で映った広告が街から消えたこと。インスタで知り合いのストーリーをパラパラ見てると突然嵐が出てきて「心臓に悪い!」となることもなくなったこと。「嵐」のページは残されてはいるけれど、メディアインフォはもうメンバーそれぞれの個人ページにしかないこと。ぜんぶぜんぶ気付いてるんだ。だから苦しい。

相葉雅紀松本潤二宮和也大野智櫻井翔は2021年も引き続き確かに存在しているけど、嵐(概念)はもういないんだ。5人が一緒に過ごすことがもしあったとしても、それは嵐に似た何かであって嵐じゃないんだって本人が言ってしまったから。それはあまりにもやさしい呪いだと思った。

休止が発表される前、嵐がよく「ずっと5人で、ひとりもかけずにやってきた」ことを殊更に強調していた時期があった。そのときに嵐がそんな話し合いをしていたことを私は知る由もなかったけれど、それを見ていたときに私は嵐にとっての「5人でひとつ」、5人揃ったときにとんでもないパワーを発揮する彼らの特性は、魔法であり呪いでもあると思っていた。「5人じゃなきゃ、嵐じゃない」はすなわち、誰かひとりでも欠けてしまったらそれは嵐ではないという脆弱性と隣り合わせなわけで。嵐の中の人たちが概念としての「嵐」に抱く思いが強ければ強いほど、「嵐」はこうであってほしいこうでありたいという想いが強ければ強いほど、早すぎる(と私は感じた)終わりを避けることは不可能だったのかもしれない。嵐は「嵐」を愛しているからこそ4人での活動続行という選択肢はなかったんだろうし、嵐は自らのこうでありたい「嵐」像がしっかりとあるからこそ華々しいフィナーレで幕を閉じようと奔走してきたんだろう。人数が変わったりグループの在る形を変えたりして続ける、もっと年数を重ねる選択だってあっただろうし実際それを最良の選択としたグループだってあるわけだけれども、嵐はそれをしなかった。他でもない嵐のために。もしかしたらファンのためにも。

嵐が嵐のまま走り抜きたい。

嵐を宝箱に閉じ込めたい。

そう語ったメンバーがいるグループだから。

櫻井翔くん。

私が、はじめて、身も心も焦がして応援していた、大好きなアイドル。

The Music Never Endsの「どうしようもない悔しさ 影を落とす日も」のパートで、初日にしてファイナルの12.31にこれでもかと悔しさを滲ませて歌っていた翔くん。

適切な言葉が見つからないんだけど、メンバーの中でも一番といっていいほど鳥の巣と国立に執着していたキャスター兼アイドルの翔くん。

翔くんの思い描いていた「最高のFinale」には程遠かった2020なのかもしれない、それでも、それでも。

翔くんが休止発表時にコメントで言った「嵐が嵐のまま走り抜きたい」、その通りの生き様をこの目で見ることができて、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、

よかった。

「嵐」を、綺麗なまま宝箱に閉じ込めて、5人で一緒に鍵を閉めるその刹那に見えてしまった泣き顔を、私が見てきた中で初めて見たアイドル櫻井翔の泣き顔を、私は一生忘れないと思う。

ラストライブの終盤に肩組んで歩いてるときの4人をずっと、翔くんからしか見られないアングルで目に焼き付けて、最後の最後に5人横並びで手を繋いだ瞬間涙を堪えきれなくなった翔くんは、ほんとうにほんとうにほんとうに、最後の最後まで「嵐」のことが大好きな翔くんだったし、しやがれの最終回で4人を見ていると胸に来ると話していた翔くんだった。最後のライブMCなのにドン滑りした缶蹴りMCの思い出を話したり、相撲をさせたりする翔くんは「くだらねえ(笑)」がメンバーに対する最大級の愛情表現な翔くんだった。

ああ、だからもう十分すぎるほどわかっているのに。

嵐にとっての最良はこれだったんだと頭ではわかってはいるんだけど、でも、でも、とどうしようもないことばかりが浮かんで苦しくて虚しくて切なくて寂しくて、「行き場のない想いに溺れてる」(嵐/Blue)。

大野くんは「嵐」はもう極めた、と思ったんだろうか。自分の中でダンスはもう極めたから事務所をやめようと思ったあのときのように、「今のうちら、トップじゃん?」行くところまで行って、走り続けてきたからひと休みしたい。他のこともやってみたい。そう思ったんだろうか。5人で肩を組んで「終わり」へと向かっていくシーンでお山(大野くんと翔くん)が両端から風っ子(相葉くん二宮くん潤くん)を挟んで歩いているとき、方や大野くんはとっても晴れやかで清々しい表情をしていて、やり切った!という感じなのに対して方や4人は涙を堪えていたあの画が、脳裏にこびりついて離れてくれない。

 

語弊がありすぎるんだけど、私は大好きなアイドルには永遠を願いつつもそれを心の底から求めているわけではないのかなと最近考えていた。そりゃあ終わりは辛くて苦しくて悲しくて、実際今この瞬間も心に穴が開いたようだけれど、たとえば大好きなグループが存在し続けることで老害扱いされているのを見るのはもっと嫌だ。物事にはいつか終わりが来るのならば、綺麗なうちに、綺麗なままで、宝箱に仕舞ってくれたほうがずっといい。……いくらなんでも櫻井翔さんに影響されすぎですかね?でももう今更だからね。私のアイデンティティの7割を占めるのは母校と櫻井翔だからね。

じゃあなんでこんなに泣いているんだろう、私が望む方向の結末なんじゃないのか?

村上くんがカウコンの事前番組で嵐の休止について言葉にするには時間がかかる、来年の歌番組にいなくてはじめて実感するかも、というようなことを言っていてそうなんだよなあ、と。嵐はあまりにも日常に溶け込んでいて、というか母が私の誕生する前から嵐担だったゆえに嵐がいない人生というのをまだ私は知らなくて。

こんな他愛ない日常に、ずっと嵐がいたから。正直どうしたらいいのかわからないや。

 

嵐へのレクイエムを書こうとしたのに自分の中でじくじくした思いがまだまとまりきらなかったから、1ヶ月後、3ヶ月後、半年後、1年後とかで経過観察的に連載してみても良いかもしれない。vol.2があるかはわからないvol.1、ということでひとまずここで締めてみようかな。

 

《2021.01.07  レクイエム  vol.1》